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神戸地方裁判所 昭和35年(わ)910号 判決

被告人 北村信太郎

明四三・三・二三生 無職

主文

被告人を懲役六月に処する。

但し本裁判確定の日より二年間右刑の執行を猶予する。

証人桜木治に支給した訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和三〇年頃から訴外斉藤寿鶴子(現姓畑中)と識合つて深い仲となり同三三年暮頃から翌年九月頃迄の間神戸市葺合区春日新地、老松食堂の二階で同人と同棲し本職の余暇には同女の営むスタンドバーに常に出入りしていたものである。而して被告人は昭和三三年一二月頃、当時同人が勤務していた神戸市葺合区脇浜町三丁目所在の川崎製鉄所葺合工場内の厚板剪断職ハウスの被告人用の机に於て、前記寿鶴子に交付して行使する目的をもつて同会社所定の用紙一葉を用い架空の人中村尋夫が、会社から受取り得る給料、退職金、その他の収入金の受領をこれ又架空人なる山田士郎に依頼する旨の依頼状として、前記中村の部課名を製鋼課、職番をL372住所を灘区下河原通四八二、又被依頼者となる山田士郎の所属を会計課出納係、住所を芦屋市打出大東町七九、本人との関係を知人と記入し、中村、山田の各名下に有合せの印章を以て中村、山田なる印影を顕出し、且つ「課長または掛長」のと「職長または掛長」欄にはかねてより被告人が預つていた自分の部下である井手尾優、衣笠明の各印鑑を擅に盗用押印し以て、前記中村尋夫が自己が会社より受取るべき金員の受領を山田士郎に依頼する旨の同人名義の工場長宛の依頼状一通を真正に成立したものの如く作り上げ、以て他人の印章を使用し権利義務に関する私文書を偽造し、その頃これを前記斉藤寿鶴子に交付し以てこれを行使したものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

刑法第一五九条第一項第一六一条第一項第五四条第一項後段、第一〇条

刑事訴訟法第一八一条第一項本文

(一部無罪の理由等)

(一)  検察官の起訴の要旨は、「被告人は前段認定の依頼状を昭和三四年一月一八日頃前記寿鶴子に示した上「頼母子講の金二十万円を支払はねばならぬが、会社の中村尋夫に二十万円程用立てゝその担保にこの退職金の受取方の依頼状を貰つているからお母さんから金を借りて欲しい」と申し向けてこの依頼状を真正な担保価値のあるもので確実に返金を受け得るものと同人及びその母斉藤さをを誤信させ同月二〇日頃から三月にかけ右両人より現金一七万七千円を騙取した」というにある。而して被告人が同女と同棲していたこと、前記の偽造私文書を行使したことは前段認定の通りであり、当時被告人が同人より金九万円を受取つたことは被告人自ら認めるところであり当時被告人が金に困つていたことも各種の証拠によつて認められるところであるが、当公廷に顕れた各種の証拠によれば、当時寿鶴子は被告人が、本妻や伊藤藤子という女があることを知つた上で被告人を熱愛し、何とか被告人を自分のもとにおきたい考えのもとに同棲し、且つ被告人も同女の営むバーの手伝をしたり、そこで飲んでいたり或は同女が被告人の給料から差引かれる月賦金で貴金属を購入する等二人の間は生活を共にする夫婦同然であつて従つて金銭も互に往き来していた事実が認められ、同女が被告人に前記九万円を提供したのは被告人の詐欺によつて騙されたためであるというより同女の愛人に対する提供夫婦同然の男女間の融通であつたと見るのを相当とする。

さればこそ被告人は返済の目的で毎月の収入の中から一万円づつ寿鶴子に渡してきたような事実もあるというべきである。尤もこの金について寿鶴子は被告人が提供した生活費であつたというているが、二人の仲はこと程左様に親密だつたわけである。即ち当裁判所は証人畑中寿鶴子に対する尋問調書の内容を以てしては前記私文書の偽造行使と金員交付との間に被告人の詐欺があつたという因果関係の存在を肯定することは出来ない。その他作成年月日も記入されていない本件の依頼書が本当に十分な担保価値ありと寿鶴子が信じたかどうかにも疑問の余地があり、又被告人が寿鶴子より借りた金員が一七万七千円であつたという点についても寿鶴子の母の斉藤さをや姉の斉藤芳子が寿鶴子に金を提供したという抽象的な事実が認められるに止まりそれが確実に十七万七千円被告人に渡されたという確信は得られない。更に被告人が寿鶴子を通じその母の斉藤さをを欺罔したという点についても証人斉藤さをの証言調書によれば同人自ら最初は金が被告人に渡つたとは知らなかつたといい娘の寿鶴子に頼まれて金を出したという程度のものであつてこれ又被告人の所為との因果関係を肯定するには不十分である。いうまでもなく刑事々件に於て被告人を有罪とするにはその事実の存在を裁判所が確信する程度に立証されねばならないのであるが本件に於ける証人畑中寿鶴子、斉藤さを、斉藤芳子に対する各尋問調書、就中畑中寿鶴子に対する尋問調書の内容の多くを信用できない当裁判所としては検察官の立証では未だ合理的な疑を残さない程度に立証されたと考えることはできないのである。ただ冒頭に認定した通り被告人が私文書を偽造して行使した点についてはその行使の目的が被告人のいうように単なるひな型を作るにあつたとは認め難く、事後に於て寿鶴子又はさをを安心させるためとかその他何らかの意味でこれを行使する意図があつたことは認められるのでこの点に関する限り被告人の有罪は避けられない。而してこの点と詐欺の点は牽連関係にあるので特に主文に於て無罪の言渡をすることはしない。

(二) 尚被告人の作つた私文書の名義人が中村尋夫(或は山田士郎を含む)という全く実在しない人物であるからかかる場合に尚私文書偽造罪が成立するかどうか刑法第一五九条の文理解釈上疑問でありわが国大審院以来の判例も長い間実在を要するという解釈であり、その解釈に従えば被告人の行為はこの点でも有罪とすることはできないのであるが最近は実在しない人であつてもそれを信頼する側の人々の利益を害される点では実在する人の場合と差異はなく、実在しない人であることが顕著でその危険がない場合以外は有罪たるを免れないという学説が有力であり最近の最高裁、高裁の判例もこの傾向にあり、当裁判所もそれを以て合理的と考えるのでこの点についてだけ被告人を有罪とした(昭和二八年一一月一三日最高裁第二小法廷の判例参照…………これは大法廷の判例ではないがこれによつて従来の判例は実質的に変更させられたものと認めるのを相当とする)

よつて主文の通り判決する。

(裁判官 菊地博)

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